「裸にされた風景」古川桂子(武蔵野市立吉祥寺美術館) ZIGOKU(地獄)
という名の、紛れもなく現実的で奥行きのない不思議な空間、草本利枝さんの作品、「ZIGOKU」をはじめてみた印象である。
このシリーズは、草本さんの生まれ育った大分県別府市近郊の地獄(温泉)をはじめ、パムッカレ(トルコ)など世界各地の温泉地をテーマに撮影された。
明るい外光のもとで撮影された鮮やかな色調の風景には、これといって怪しげなものが潜んでいるわけではなく、写っているのは、わたしたちがそこに行けばごく同じように見えるはずの光景である。
草本さんはこのシリーズの制作意図としてこのように述べている。
「意識、無意識に関わらず日常にさまざまな音が響いている。
しかし、まるで音が存在しないかのような瞬間がある。
私たちを取り巻く環境から切り離し凍りついてしまったかのように感じる一瞬。
このような瞬間、場所の持つ意味や固有性は失われ、みているのにみえていなかった風景がうかびあがってくる。
今回はあえて世俗的な温泉地で撮影し、上記のような意図の写真をめざした。」
通常、旅行にでかけようとするとき、その地に纏わる情報、すなわち各地のオリジナリティー(=文化)を求めるのが常であろう。
そこに赴き、珍しいものを見聞きし、味わい、周囲の声や物音、温度や湿度のなかで非日常を体験することこそが、旅の楽しみである(と思う)。
その逆に、観光地側がその個性を広告するために、より特殊であろうと強調する傾向さえあり、なかには賑やかな、暖かな雄大な、といった形容詞に即した経験を求める人もあるだろう。
しかし、「音が存在しないかのような瞬間」、「みているのにみえていなかった風景」を目指した草本さんの観光地の記録からは、それを形容することばが見当たらない。
有能な視覚のみを盾とし、その他の感覚を持ち合わせない写真の眼そのものとなり、情報と呼ばれるものを退け、現代を生き抜くための賢さを養っているかのようにみえる。
本当にいま、世界は情報に溢れているのだろうか、それは本質を包み隠しているにすぎないのではないか、と。
そうして裸にされた風景が、紙を媒体とした写真になり、わたしたちに提示されると、草本さんの平らな画面に、なにものかが潜んでいるような感覚に陥る。
同じ場所で立体的に見えていた物事が、より単純に平面化されただけで、なにか別の存在を感じるとはどういうことなのだろう。
草本さんに制作の対象についてメールで尋ねると、次のように答えてくれた。
「興味があるのは、ふとしたはずみに『世界』がのめりこんできて、今までみえていなかった『ぶきみな世界』がみえる瞬間のような気がします。」