京の雑煮
子供の頃の正月風景を思い出しました。私の家は祖母と両親、兄と私の5人家族でした。
ご宝前のお祀りされた六畳間に集まって家族そろってのお参りを終え四畳半の居間のふすまを開けて少し広いめの間をつくると
ご宝前に近い上座から祖母、父と順にお膳を並べます。
末っ子の私はいちばん端です。
朱塗りの膳の上に同じ朱塗りの椀や皿が四方に乗っています。
父の膳は大きくて次に兄で私の膳はいちばん小さなものでした。
祖母と母の膳は黒塗りで高い脚のついたもので椀は黒塗り中が朱に塗られたものでした。
元旦の挨拶を終え、祝い膳に箸をつけると新しい歳が始まります。
京都の雑煮は丸餅と頭いもの白味噌味仕立てを三ヶ日続いていただきます。頭いもは人の頭になれるようにと、大根や小芋そして花がつおがかけられゆらゆらと揺れています。
私は子供の頃、その濃厚な甘い白みそ雑煮が苦手でした。ところが、ふだんから小食ぎみの両親や祖母は一つ、もう一つと
うまそうに餅をほうばります。
「この餅のどこがおいしいのやろ」と子供ごころに感じておりました。
今年も年末を控え正月を迎えます。
あの頃のように座敷で膳を並べ、大人達はきものなんぞ着て正月を祝うようなことなどなかなか出来なくなってしまいました。
もうすぐ息子たちが遠方から帰って来ます。
そしてあの白みそ雑煮をうまいうまいとおかわりするものもいますが
私と家族の数人はやはり未だに苦手なままでいるのです。
京都の雑煮とはそんな不可思議なものであると私は感じております。
亀村 俊二 |
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エコロジー
数年前から私は写真撮影の移動手段として天気のよい日には補助電動機付き自転車を利用することにしてきました。
最近小型化しているデジタルカメラを前かごに入れ、三脚は荷台に結びつけます。
京都市内を自在に走って、目的地に着いてからの写真撮影はなんとも爽快であります。
先日、日経新聞に東京大学名誉教授の月尾嘉男氏はこんなことを書いておられました。
「環境対策の一つのステップとして最後に必要になるのは精神革命だ。
大型の車に乗る事が地位の象徴ではなく、むしろ小型車、場合によっては自転車に乗ることが格好いいという精神構造が必要になる。」
7年前、私は大きめの自家用車を軽自動車に乗り換えました。
私の場合は経済的理由からでもあるのですが月尾先生の書いておられた精神革命とまではいかないにしても「軽自動車が、自転車がエコロジーで格好いい」と思って乗っているのも事実でこの記事を読ませてもらって、なんとも、ほっとしている次第であります。
亀村 俊二 |
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パリの壁 <ジョルジュサンクのポスター群>
この11月に銀座の「ドゥミ・ソメーユ」という名のギャラリーで
個展を開くことになりました。
写真展のタイトルは
「パリの壁」ジョルジュサンクのポスター群
パリの地下鉄・ジョルジュサンク駅の壁に偶然にも
こびりつくようにして遺った
(1940〜50年代の)ポスター群を中心に撮影した写真。
古びた壁には無数のポスターが貼られ剥がされ、その重なり合ったグラフィックたちは半世紀の眠りから覚め
その場を通り過ぎる人々の視覚にひっそりと訴えかけていました。
駅の改装にともない残念なことに今はもうその壁を見ることはないのですが
写真のフレームで切り取られたもう一つの「グラフィック」として見ていただければ幸いです。
亀村 俊二 |
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皆既日食
この8月、ウイグル自治区ウルムチであった皆既日食の観測に長男が参加しました。
中国情勢が悪い中、心配していたのですが
好天にも恵まれ皆既日食の映像も良く撮れてなにごともなく帰って来られたこと
一先ず安心いたしました。
思えば私も1983年、インドネシアのジョグジャカルタの奥地で見られる
皆既日食の観測隊に加わったことがあります。
現地では私達が訪れる以前から雨が降り続き地面はぬかるみ状態となり
ジャングルを切り開いた観測地は高温と多湿で劣悪な環境でありました。
京都で生活している私には耐えることができないほど厳しい熱帯の気候でした。
日本からの同行者の中には食中毒被害にあったり、
またマラリア蚊の恐怖にさらされるなど重い空気が流れておりました。
しかし、私達の観測地は運良くその日の朝から晴天で
正午近く、太陽は欠け始め日食はさえぎる雲もなく順調に始まりました。
原住民たちは「月が太陽を食う」と恐れてジャングルの奥に消えてゆき
山の稜線と接する空だけがかすかに青く
天空は黒い太陽を中心に大きな雨傘をかぶせたような墨色となり、
そして、黒い太陽の一部がピカッと輝きダイヤモンドリングとなるや
輪郭に青い炎が現われ始めました。
待ちに待った「コロナ」です。私は夢中でシャッターを押し続けました。
マラリア蚊や食中毒などの
重い空気はいつの間にか何処かへ消えさっておりました。
来年7月22日には奄美・トカラ列島などで皆既日食を見ることが出来るようです。 今度は長男の参加する観測隊に同行したいとひそかに狙っている私なのです。
亀村 俊二 |
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メールの効用
東京に住む三男に長いメールを送りました。
6年もの間離れて暮らし、たまにしか会わないでいると彼が何を考えどのような暮らしをしているのか
伝わってこないこともあります。
京都に住む私と妻の思うところもまたなかなか伝わりません。先日も、あることがきっかけであまり連絡をしてこなくなりました。
本当は逢ってじっくりと話す機会をつくればいいと思ったのですがこちらの考えをすべてメールで送ることにしました。携帯ではなくてパソコンでの手紙のように長いメールになりました。
一ヶ月後、東京で撮影があり仕事を終えた私は三男と夕食を共にしました。
食事中メールの内容のことを話し出そうかとしたのですが、私はあえて他のことばかりを話し続けました。ところが彼から積極的に話し出して来たのです。
私たち親子はこんどは向き合ってじっくりと話し合いました。機械ばかりに頼る世の中ではありますがパソコンのモニター越しでも親の想いは彼に伝わっておりました。
メールばかりで会話する現代生活の悪影響が叫ばれる昨今
時には、手紙のような長いメールも捨てたものではないなあと感じるひとつの出来事でした。
亀村 俊二 |
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小説「海岸列車」より
京都駅から山陰線に乗り城崎で各駅停車に乗り換えると
海岸沿いを走って五つ目の駅に「鎧」(よろい)があります。
私はほぼ25年前にその鎧駅を訪れたことがあるのです。
何故そこに行ったのか
何の計画もなかったのですが
国道沿いに車を走らせると「鎧駅」と書かれた標識が目に入って来たのです。
私はなぜか「鎧」の文字にさそわれるように
国道から脇道にハンドルを切りました。
狭い山道をほんの少し走ると二股に分かれ、右の坂道を下って民家の間を過ぎると漁港に出ます。
左の道をまっすぐ進むと鎧の無人駅につきあたります。
駅は小高い位置にありそこから遠くに見える日本海を眺めると
湾を挟むように左右に山が迫り、眼下には漁村の家々が寄り添って立っていました。
そこはなんだかほっとする山陰の海岸風景で
暫く佇んでいたいと、そんな気持ちにさせる不思議な場所でした。
私は作家の宮本輝さんが好きでよく小説を読ませていただいてます。
「海岸列車」を読み始めた2ページ目に突然あの「鎧駅」が現われたのです。
自分の目を疑いました。
「なんで」「なんで鎧駅」
近辺に住まう人々以外誰も知らないような無人駅「鎧」が小説に
宮本輝さんも「鎧駅」に立って見るあの風景が忘れられなかったのか・・・
私は「海岸列車」を読み終えもう一度「鎧駅」にゆくことにしました。
今度は小説のとおり各駅停車に乗って「鎧駅」に降り立ちました。
そして上り列車が来るまでのほぼ1時間、そこで過ごすことにしたのです。
昨夜から降りつづく雨の中、まあるく見える湾を鳥瞰しながら写真を撮っていると
あの小説「海岸列車」のひとコマのように
眼下には数匹の鳶が海から吹き付ける風に乗って悠然と舞っていました。
亀村 俊二 |
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「パントマイム(無言劇)」
京都駅にほど近い交差点で赤信号の変わるのを待っていました。
私が渡ろうとする先には、両手にたくさんのビニール袋をさげ一目見て
ホームレスのような身なりの初老の男性が赤信号で立ち止まっていました。
そこへコンビニの自動ドアから数人の外国人観光客が買い物を終え出て来ました。
彼らの中の一人がそのホームレスの頭からつま先まで観察し始め
そして、何やら話しかけポケットから小銭を出して彼に渡そうとしました。
私はその様子を見て、ほほー・・・なかなか微笑ましいことやなぁと感じていたのですが
外国人から小銭を差し出された彼は毅然と姿勢を正すかのようにして
はっきりと断り、その場から立ち去っていったのです。
残された外国人観光客は信じられないという表情で顔を見合わせておりました。
彼らが何を話したのか交差点の向こうのことで、なにも聞こえなかったのですが
今、私達が忘れかけている古き良き日本の「日本人のこころ」
そんな無言劇を遠くから垣間みたような一瞬でした。
亀村 俊二 |
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「ごろせ川 2」
小学生の頃、私の家には数匹の猫がいました。
いつも庭の大きな樫の木の二股でじゃれ合ったり昼寝をしたり
ところが毎年のように春ともなると子猫が産まれるのです。
今では考えられないことなのですが、当時の世間では子猫が産まれて貰い手がないと
段ボール箱にいれて人目に付く場所にこっそりと置いておくか
産まれたてのそれを川に流してしまうかどちらかであったようです。
私の家も子猫が産まれると母は困っていました。
そして、夜になると母はそれをもって何処かへ出てゆくのです。
朝になると子猫は何処にもいません。
ただ、母猫が子猫を探してニャーニャーとないているだけでした。
またいつものように、子猫が産まれた夜のことです。
母が私を呼びました。
「俊ちゃん、猫、捨てて来てえな」
私は母の言うことを素直に聞く子供でしたがこのときばかりは
「いやや」と素直に聞くことが出来ませんでした。
何度も懇願する母に根負けして、とうとう首を縦に振って
「うん」と言ってしまった私は、母の次のことばに耳を疑いました。
「ごろせ川に、捨てて来てくれたらええのや」
四、五匹の子猫は包まれた新聞紙の内側から柔らかな爪音をたてて
ミャーミャーとないています。
私は遠くに灯る電柱の明かりをたよりにごろせ川まで暗い道を歩いてゆくのです。
そしてザーっと音をたてて流れる暗闇の川に投げ入れたのです。
その包みは暗渠となった川にすいこまれてゆきました。
今になってもふっとした折りに、「ごろせ川」でのあのことが思い出されます。
そしてそのとき、小さな声で何度も
「お題目」をお唱えする私なのです。
亀村 俊二 |
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遠い記憶 「ごろせ川」
小学二年生の頃の話です。
私が通っていた宮敷分校の側には「ごろせ川」と呼ばれる汚れた小さな川が
とろとろと流れていました。やんちゃで少しきつね顔をしたAくんは放課後よくその川で魚捕りをして遊んでいました。
私はAくんにどんな魚が捕れるのかたずねてみました。
「ナマズや。大きいナマズが捕れるでえ」目を輝かせて真剣に彼は言いました。
「これくらいのが」と彼は両手を広げて見せました。
どうやって捕るのかと尋ねると「釘や。くぎを釣り針みたいに曲げてそれにひもをむすんで」「川に沈めといたら、すぐに釣れるわ」
私は家に帰って兄にそのことを話しました。
兄は私の話を信じませんでしたが私があまりにも夢中になってねだるものですから
釘を持って来て、金槌でたたき始めました。
不格好に曲がった釘がひも先についた仕掛けが出来上がり私は急いでそれをごろせ川へ沈めにゆきました。割り箸を折って結んだ浮きはいつまで待っても沈みません。
だいぶたって、私はふっと、もしかしてAくんにだまされたのではと思い始めました。
「こんなんでナマズが釣れるはずがない」
その時、網を持ったAくんと数人の上級生が川上からザブザブとしぶきをたてて
現われました。
そして川岸にしゃがみこんでる私を見つけるなり「わあー、あほやー、こんなんで釣れるはずないやろ」と、仲間と一緒に囃し立てて笑ったのです。
そんなことすら解らなかった私はその時
顔から火の出るくらい恥ずかしい思いをしたのをはっきりと覚えています。
Aくんが何故あんなに真剣な目をして私を騙したのか、そしてまた、からかったのか私はAくんのことが分からなくなり次の日から彼と話をあまりしなくなりました。 それは子供同士の遊びだったのでしょうか。
そのことがあってから彼はまもなく宮敷分校からどこかの町へ転校してゆきました。
亀村 俊二 |
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「飄々と・・」
先日、友人がうちのギャラリーカフェに来て
妻の煎れるコーヒーを楽しみながらこんなことを言って帰りました。
「ここは、ええなあ、何時ものんびりしていて明るくて」
「何の悩みも感じられへんし」 「かめさんも(私のこと)飄々と暮らしてて」 「ここへ来たら、癒されるわ・・・」
私と妻は、友人が残していったその言葉に此の上なく勇気づけられました。
私たちも世間と同じように時間に追われながら時として心にゆとりなく暮らしているはずなのですが・・・ 彼の目には『悩みもなく飄々と生きている』ように映ったのですね。
亀村 俊二
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「養生の実技」より
五木寛之の「養生の実技」を昨年読みました。
その本には、作家五木寛之が彼なりに身体に良いことを
実行していることが書かれています。
もののたとえで、彼はこういうことを言っています。
「うなぎ」はぬるぬるとしていますが
それを、タオルできれいに拭き取ればすぐに死んでしまいます。
人間の場合も同じで、皮膚の脂を石けんで取りすぎると
あまり良くないようです。
私は、五木さんの考えになんとなく納得してすぐに実行に移しました。
それまで、毎日お風呂に入ってシャンプーをしてたのですがその日から、石けんで頭を洗うことを止めました。 シャワーでよくすすぐだけの洗髪にしたのです。 数日は「かゆくて困るかなあ」と心配していましたがところが何日たっても私の頭頂部の薄くなった丸刈り頭は かゆくなったりはしなかったのです。
あれから一年と数ヶ月が過ぎました。
私だけの気のせいでしょうか
丸刈り頭のてっぺんに新しい髪が生えて来たような感じもする最近ですが・・・・。
心当たりのある方はいちど実行されてみてはいかがなものでしょうか?
亀村 俊二 |
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「空振りの連続」
私は子供の頃から球技が苦手で、いつも近所の子供たちから相手にされない子供でした。
小学校低学年のころ近所の草むらで三角ベースが始まりました。 身体も弱く、人いちばい野球もへたなのですが
、その日にかぎって人数合わせで誘ってもらいました。
私は野球に加えてもらわなくてもよかったのですが、何度も誘われるのでしかたなく仲に入りました。三角ベースは少人数でする野球なのですぐにバッターの順番が回って来ます。
ほどなく私の番がきました。
ピッチャーの投げたボールは私の予想どおり弱々しく振ったバットからは
ほど遠いところを通過していきました。あとの2球もそのまま私の前を通り抜け、あえなく三振となってしまいました。
「ああやっぱり三振か」皆のニヤッと笑う顔が私の目に飛び込んで来ました。
次の番もその次も三振は止まりません。 周りの者たちが、私のいくじのなさにしびれを切らして
「バットを短くもって」「もっとボールをよく見て」「脇をしめて」「あごを引いて」 あきれたように特訓をしてくれるのですが私の空振りは焦れば焦るほど止まりません。
私は顔から火の出るほど恥ずかしい思いをしながらバットを振り続けました。
結局、夕方まで振り続けたバットには一度もボールはあたらなかったのです。
複雑なこころで家路についた想いは今も忘れません。 以来、こういった私の弱々しい面はふだんの生活や仕事にも時として現われます。 そして、そのような時、いつもあのどうにもならない空振りのくりかえしの場面が想い出されて来るのです。
亀村 俊二 |
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「父の臨終」
私の父は晩年胸の病で入退院を繰り返していたのですが
6年前の春の入院が最後でした。
当時、私は仕事が忙しく出張撮影に妻とともにあちこちと出かけ不規則な生活をつづけていました。父の入院した病院は幸いにも私の家の近くだったので 京都にいるときは朝に必ず病院へ行って父と会っていました。
父は薬の効かない胸の病と高齢ということもあって日に日に弱ってゆきました。
ある時、院長先生が私たちにレントゲンフィルムを見せて病状を説明されました。
「お父さんの肺は20%も機能していませんね」
確かにレントゲンで見ると父の左右の肺はほとんど形をなしていません。 心臓といえば空気の抜けたヨウヨウ玉のように細く長く写っているではありませんか。
「先生、本人はしんどいですか?」
「いや、脳に酸素がいきわたってないので、あまり感じられてないでしょう」
私たちは院長先生のその言葉を聞いて少し安心しました。
父は目尻に涙をためながら何か言いたげに合図をおくります。 私と妻は父の口元に耳を近づけ、か細い声を聞くのですが あるとき、はっきりと父の言葉が聞き取れたのです。
「はよ、死なしてえな」
私たちは父のその言葉を聞いてしまって、涙しました。 涙して、そして父の耳元で言いました。
「お題目唱えたらええねん」 「お題目お唱えしたら・・・」
父はそのことがあってから数日後に死にました。
私と妻が朝早く父に会って「待っててや、撮影に行ってくるしな」 といって出かけた後のことでした。
私は父の言葉を聞いてしまったあの時、少しでも長生きしてほしかったのか、またそうでなかったのか、矛盾するこころの決断を、今も後悔はしておりません。
父の七回忌にあたり、ふっと想い起こすこころの中の出来事でした。
亀村 俊二 |
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「息子の結婚」
この春の次男の結婚披露宴でのことです。
次男・佳宏と麻美さんがふたりで工夫を凝らした
レストランでの披露宴はたいへんなごやかに進んでおりました。
私は両家を代表してお礼の挨拶をすることになっていたのですが、挨拶の途中感極まって涙してしまわないか心配しながらも宴はお開きに近づいていきました。
おいしい料理やお酒、楽しいひとときのおかげで、涙のことなどすっかり忘れてしまった私は心配するほどのこともなく挨拶をすませることができたのです。
次に新郎の挨拶が始まりました。
ところが、最初の一言はよかったのですが次の言葉が出て来ません。
あまりにも長い沈黙が続くのでそっと佳宏の顔を覗いてみるとうつむいた彼の目もとには感激の涙があふれていたのです。
沈黙は続きます・・・。
誰もが諦めかけたその時、お礼の挨拶のつづきが始まりました。
夫にかわって、妻になったばかりの麻美さんのそのあいさつは 佳宏が忙しい仕事の合間を縫ってすすんで結婚式の準備に追われてくれたことなど夫への労いの言葉と
参列の皆様への感謝の気持ちが二人からのメッセージとしてしっかりと綴られておりました。
宴もことなく終わってほっとした私たち夫婦に先方のご両親が恐縮されるばかりです。
「もうしわけございません。」「麻美が、挨拶なんかしてしまって・・・」
実を言うと、私も肝心な時には妻に助けてもらってきた人生。
「ああ、良かった、良かった、奥さんがしっかりしていてくれて」とお嫁さんにこころより感謝するばかりなのでした。
亀村 俊二 |
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「ヒッチハイク」
私がまだ26歳のころ先輩のカメラマンと二人で真冬の能登半島へ撮影旅行にでかけました。
鉛色の雲がたれ込める厳寒の能登の風景を求めて、私たちは波打ち際や岬を歩き回り写真を撮りました。
次の目的地までの移動は、海岸線を走るバスなのですが寒風が吹き抜け真っ白に凍ったバス停で長時間待つことが辛くなって来て、時折通りかかる乗用車に合図して乗せてもらうことにしました。
私たちは遠くの方から雪を蹴って走って来る1台の車を見つけ、大きく手を振りました。
二人とも髭づらで決して美しい身なりではなかったのですが、その車はすぐに止まり
凍てつく窓を開けた運転手は「どこまでいくの?」と警戒する様子もなく私たちに声をかけてきてくれました。
その出来ごとに気を良くした私たちは、能登半島一周の旅をこの経済的で便利なヒッチハイクという交通手段で、すべて終えた次第でした。
時は移り数年前、私はワンボックスカーに撮影機材をいっぱい積み込み横浜へ撮影に出かけました。 京都南インターチェンジの料金所の少し手前で三人の若者が「東京方面・乗せてください」とおおきな文字を段ボールの切れ端に書いて振っているではありませんか。
私はすぐに車を止め「荷物がいっぱいやけど乗っていく?」と声をかけました。
決して美しいとは言えない身なりの三人は荷物の隙間をぬって乗り込んできました。
私たちは横浜駅まで、彼らは東京ですから、「後は電車で帰ります」とおおよろこびでした。
よく見ると、一人は20代半ばの女の子であとの二人は同世代の男性で、どうやら彼らは一人旅らしく京都で出会って意気投合したらしいのです。
狭い車中ではそれぞれ自分のことを話したり
女の子からは少し身の上話も聞いたりして和気あいあいと6時間余を共にしました。
そして横浜駅で降りる三人から丁寧なお礼の言葉をもらった時 、30年ほど前、能登半島で受けた感謝の想いを今なんとなく返せたような、清々しい気がしたのでした。
亀村 俊二 |
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「うれしい出来ごと」
昨年、私が教える美術大学の卒業生から突然電話がありました。 電話口の声で彼女の名前と顔をすぐにはっきりと思い浮かべることができました。
彼女は6年前に卒業して現在、大阪のデザイン事務所に勤務しています。 久しぶりの電話の内容は、私が撮った「京都の写真」でカレンダーの企画をしたいとのことでした。
企業のカレンダーにはコンペがあって、そこからひとつ選ばれるのですが 、 「デザイン」と「写真」が一つになって始めてよいものが生まれます。 正直言って、私の写真は毎年カレンダーのコンペには出るのですが 、 ここ何年間は選ばれることはありませんでした。
早速、数千枚の写真を選び持ち帰った彼女は、一ヶ月ほどして、そのうちの200枚もの写真をうまく散らして錦絵のようなデザインをあげてきてくれたのです。 彼女の時間を惜しまない努力と仕事に対する愛情が一目見て伝わってきました。 すばらしいカレンダーに仕上がっています。
そしてカレンダーは細部の修正を終えコンペに出されました。
程なく彼女から電話がありました。
「ありがとうございました。企画・・通りました。」と、うれしい声。
私もその声を聞いて、大きな仕事を終えた充実感を彼女とともに感じていました。
28歳の女性と57歳のおじさんとのコラボレーションなのですが 、私にとっては教え子から若い力をもらったようなそんな気持ちで、本当にうれしい出来ごとでした。
亀村 俊二 |
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「猫」
昨年の秋、息子の知人から頼まれて 一匹の小猫をもらいました。 私の母がひとり暮らしをしているので、遊び相手にでも なるだろうと母の家で飼うことにしました。
小猫は、ミーと名付けられました。
野良猫の子としてうまれたミーは 大阪のとある公園で女の子に拾われたのですが 、 夏の日差しと公園の砂埃で小さな目はまともに開けることも ままならぬほど痛めつけられていました。
女の子は子猫を家に持ち帰ったのですが、飼うことが出来ず息子の知人に託したのです。
ミーと私の母は共に楽しく暮らし、半年が過ぎようとするころ、母は突然のぎっくり腰で寝込むこととなりました。 その後、母の身体は順調に快復したものの 母は私に、ミーを預かってほしいと言いだしました。 自分が寝込みでもすれば猫の世話が出来なくなってしまうと感じたのでしょう。
そして、ミーは私の家にしばらく居ることになったのですが、私のところも、ギャラリーとカフェをしているので 、もっとも親しくつきあっている家族に頼み込んであずかってもらうことにしたのです。
あれから1ヶ月、何度もミーの様子を伺いに友人宅をのぞいているのですが 夫婦と二人の娘さんにつぎつぎと可愛がられ南向きの広い庭とガラス戸のはまった縁先、居間には大きな炬燵があり いつもそこで、丸太のように伸びきって昼寝をしているミーと出会うと、野良猫として生まれたミーの人生いや猫生にろいろあったけど、彼にとって今が最高。
ここらで落ち着いてのんびりと幸せに暮らしてほしいとひそかに願うところです。
亀村 俊二 |
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「ウクレレを始める」
私の主宰するギャラリー・ホリゾントに集ういつもの仲間でウクレレ・オーケストラが結成されました。今のところのメンバーは40代〜60代の男女7人で、映像や、写真、図案や手芸など、ものづくりの人間達の集まりです。
練習はうまく弾ける者が、初心者に手を取り教えるというものとは言っても、私だけがまったくの初心者で、56歳において始めて弦楽器とのつきあいです。いくら教わってもうまく弾くことができない日々が長く続きました。なんとかメンバーについていけるようにと、ある名案を思いついたのです。
「よし、これは慣れるしかない」 「習うより、慣れろ」「生活をウクレレ漬けにしてやる」
それから、撮影やパソコンの少しの待ち時間をおしんでウクレレを傍らに、1分・2分の短時間練習の積み重ねが始まりました。
慣れというものは恐ろしいものですね。
ウクレレを練習し始めて3ヶ月、曲がりなりにもようやく昨年の暮れに3曲だけのライブを開くことができたのです。
ライブの様子を写した写真が出来てきました。小さなウクレレを抱えての楽しい演奏のようすが捉えられています。少し緊張気味の私とメンバーの顔には溢れんばかりの笑みがこぼれ落ちていました。
バンドの名は「エミーズ」。
いつもの練習日にお茶の世話など引き受けて、そして、いちばんのファンでもある妻の名前にちなんでメンバーが「エミーズ」と名付けてくれました。
亀村 俊二 |
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「弁当箱」
小学4年生の頃です。
その日は偶然に、私と兄の遠足の日で、母は二つのお弁当を作ってそれぞれに持たせてくれました。
家には何故か弁当箱が一つしかなく、母は隣に住む叔父の弁当箱を借りてきていたのです。そして、僕がそれをもって行くことになったのでした。
遠足はとても楽しく、すぐに食事時間となりました。皆で輪になり、僕は担任の先生の側に座りました。
一斉に弁当箱を取り出したときのことです。先生は僕の弁当箱を見つけると、「わー、かめむらくんのお弁当箱、ベコベコに歪んでるなあ」と大きな声で言ったのです。
級友達の目は僕の古ぼけたアルマイトの弁当箱に注がれました。そして、おおきな笑いがおこりました。当時の男子といえばアルミのブック型の弁当箱が流行でした。僕の顔は真っ赤になり、楽しかったはずの遠足は寂しい一日と変わってしまったのです。
今、社会の大きな問題になりつつある「学校内のいじめ」が報道されると何故か、私の中であの遠い日の出来事が思い出されてきます。
今日、美大で写真基礎の授業をもって11年となりますが、生徒たちひとり一人がどのように私の言葉を受けいれているのか、ふっと気になりながら授業をすすめている昨今です。
亀村 俊二 |
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「京のもてなし」
年に何度か京都に来られて仕事をご一緒する神戸の女性がおられます。彼女は大変京都好きなので、私と妻はいつも珍しいお店を探しておいて、撮影の合間にお昼をご一緒するのです。
先日、こんなことがありました。
「有名人が紹介する京都のお昼・・」という情報誌を見ていると、「老舗がつくる親子丼ぶり」が目に飛び込んできました。
妻 「あまり知らんお店やねえ」
私 「女優さんおすすめの店やから秘蔵の店かも知れんなあ」
そしてその老舗の前に立った私たち三人は、京都らしい町家の店構えに満足しながら中に入ったのですが、「お昼の親子丼ぶりのお客様は奥の二階です」となにかそっけない中居さんの声。
案内されるままに狭い廊下を通って奥座敷の席に着きました。お昼の時間には少し遅かったせいか、そこには一組の家族と修学旅行生のグループが静かに座敷机の前に座っているだけでした。
私たちも空いている席にゆったりと座ることにしました。二階の窓から見る坪庭の風景は瓦屋根と調和してさすが京の町家の風情でした。その景色を楽しんで話しているとすぐに親子丼ぶりが運ばれて来ました。
「もっとつめてください、相席ですから」
中居さんの言葉に驚いて小さな机の端に追いやられた私たちは、「味だけは期待どおりであってほしい」との思いで、早々と出されて来た親子丼ぶりに手をつけ始めました。
楽しみにしていた今回の京都のお昼ご飯は残念ながら期待はずれに終わってしまい、「たまにはこうのもあるよねえ」と妻と神戸の女性は私を慰めてくれるのでした。
勘定を済ませ誰もいない薄暗がりの玄関で靴を履いていると
「すみません〜」「おおきに〜」「すみません〜」「おおきに〜」「ありがとうございました〜」とはりのある声が聞こえて来ます。
よく目を凝らして見ると暗がりの中、まっくろな九官鳥がしおらしく、けなげに私たちに声をかけてくれていたのです。おもわず心がほころび、なんとも皮肉なこの声に見送られ、笑いながら店を出た私たちでした。
期待に夢ふくらませて、京都に来られる観光の人々が多い昨今、「京のもてなし」にはじゅうぶん心をこめて気持ちよく帰って頂けるようにしてもらいたいものです。
亀村 俊二 |
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「生八つ橋」
昭和30年頃、母は京都の新京極通り四条を少し上がった(北に行った)ところでタバコ屋を営んでおりました。
昼間は祖母が、夕方から夜にかけては母が店番をすることになっていました。私はいつも祖母と夜を過していたのですが、時には私をつれてタバコ売りをすることがありました。
当時、新京極通りは京都随一の歓楽街で夜遅くまで人通りが途絶えることはありませんでした。
郊外に生まれ育った私にとっては夢のように光り輝くまぶしい街でした。ガラスのショーケースには「ピース」「光」「しんせい」「パール」に「ゴールデンバット」色とりどりのタバコの箱が隙間なく並んでいます。ぶらぶら歩く通行人の中には、母のいるタバコ屋を見つけてはこちらに近寄って来くる者がいます。
母はガラスのちいさな窓越しに慣れた手つきで次々とタバコを売り、私はカウンターの下の十円や五円玉を揃えては並べ、母の側を離れることはありませんでした。
ところが、奥の店に勤める女性が私を見つけるといつも「八つ橋、買うて来て」「まだ焼いてないのやで」と言って小銭をもたせるのです。
私は大人達がそぞろ歩く夜の新京極通り、ペンキで描いた「映画館の看板絵」、大きな水槽にうなぎを泳がせた「ウナギ釣り」、並んだ人形をコルク玉の銃で落とす「射的」など怖々ながらあちこち覗き歩いてから、八つ橋を買いに行くのです。
八つ橋は店頭で実演して焼かれ、辺りには香ばしいかおりが漂っています。
私はこれから焼かれようとする薄ちゃ色で半透明なものを指差して「まだ、焼いてへんのん、ちょうだい」と言います。店員は少し不満気な顔をするのですが、私が差し出した小銭分の「焼いていないやわらかな八つ橋」を持たせてくれるのです。
子供の頃、八つ橋といえば褐色になるまで堅く焼かれ、噛むと口の中でガラスが割れるような感じがしてあまり好んで食べることはなかったのですが、あのやわらかくて甘いニッキの香を頬張った途端、好きなってしまったことは今も忘れません。
何時の頃からでしょうか。京都名物「生八つ橋」というものが生まれたのは。
「生八つ橋」を口にするといつも思い出します。
あの頃の「ネオンに浮かぶ夜の新京極通り」そして「タバコ屋の母」のことを。
亀村 俊二 |
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「ネス湖の思い出」
ネス湖のネッシー伝説がまだ信じられていた頃、1977年にイギリスのスコットランド地方にあるネス湖へ旅をしました。
ロンドンから機関車とバスを乗り継ぎ2日間かかってネス湖の起点の街インバネスに着いたのは午後の3時をすぎていました。
早めにツーリスト案内で今夜のBB(ベッド・アンド・ブレックファースト)民宿を予約してすぐにそちらに向かいました。
BBは三角屋根の可愛らしい家で庭の芝生と赤いバラのコントラストが魅力的でした。
ベルを押すと中からお婆さんが出て来て、この家の住人が居ないので後で来るようにと言われ、とりあえずバッグを置かせてもらって、カメラひとつ持ってインバネスの街を散策しました。
ひととおり街を撮り終えてBBへ帰ってくると、こんどは先とは別のお婆さんが出て来て、また、この家のものが居ないと言うのです。私は今晩の宿泊予約をしていることを片言の英語でなんとか伝え無理を押して部屋へ案内してもらうことにしました。
そして、二階の奥の部屋へ入るなりその様子に驚かされました。壁はピンク色の細かい花柄で金色の曲線の飾り金具の付いたベッドも可愛い花柄でトイレもバスも壁の楕円形の大きな鏡や照明まで金色とピンクで揃えられていたのです。
私は、明朝早くからバスでネス湖に行く計画だったので、風呂に入ってすぐに寝ることにしました。
ベッドで横にはなるものの、私が会ったのはふたりのお婆さんだけでこの家の住人がいないこと、そしてあまりにも奇麗すぎる女性の部屋で自分が眠ろうとしていること、あまい香水のかおりなどが気になってなかなか眠りつくことができませんでした。
もしかして、とんでもない所に迷い込んだのでは・・・部屋の明かりも消せずにうとうとし始めた頃、ドアをたたく音で起こされました。ゆっくりと立ち上がって少しドアを開けると、またまたお婆さんが立っています。先の二人とは別人の・・・その三人目のお婆さんから「居間でお茶にしましょう。」と誘われたのです。
時計を見ると午後9時。
あわてて衣類を身につけ誘われるまま、狭い階段を恐る恐る降りて行きました。
はて、自分はこれから何人のお婆さんと遭えばよいのか・・・。
悩みが解決したのは、居間のソファーに腰をかけてまもなくでした。
三人目に会ったお婆さんが紅茶を入れながら「さあ、それでは皆さん自己紹介してください」宿泊客は私と長期滞在のカナダ人老女、オーストラリア人老女、そしてドイツ人青年の4人それぞれ気ままな一人旅だったのです。
その茶話会が終わってから、あの甘いかおりの部屋で安心してぐっすり眠れたのは言うまでもありません。
亀村 俊二 |
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映像「家」
昭和61年の夏
私は小学生の頃、今から思えば以外なほど積極的で、男女をとわずクラスのほとんどの生徒の「家」へ遊びに行っているような子供でした。
4年生のある日の学校帰り、同級生のO君と意気投合して遊ぶうち、彼は小さな声で「家に来いひん?」と僕を誘いました。
O君は色白で鼻から頬にかけてのそばかすが愛嬌の小柄でおとなしい生徒でした。
僕は彼の「家」へ行くのは始めてです。
おおきな橋を渡りきると彼は急いで橋のたもとの急な階段を降りてゆきます。
僕も後を追って降りて行ったのですが、彼の「家」はその橋の下で、古い板を集めて作っただけの小屋だったのです。それを見た僕は、はっとしましたが、誘われるままその小屋の中に入りました。
そしてO君は彼の家族のことなど真剣なまなざしで話しをしてくれました。僕はO君の「家」を見てしまったことで、彼との関係が変わったことなど、ひとつもなかったと感じていました。
そのことがあってからしばらくして、O君はどこかの小学校へ転校していきました。
そして程なくO君からの便りがあり、僕は彼と会いました。
「僕の家に来いひん?」
僕はまた誘われるまま、歩いて1時間程の道のりを彼についてゆきました。こんどは、織機の音が聞こえる昔ながらの家々が並んだ一角にありました。表でお好みを焼いている駄菓子家で、二階の部屋がO君のこんどの「家」でした。斜めになった低い天井、むしこ窓が妙に明るかったことを覚えています。
そして40年後、偶然に街でO君と出会いました。お互い時間がなかったので長い話しはできなかったのですが、O君がそっと名刺を差し出して言いました。
あの、懐かしい声で、「できれば、いちど来て」・・・と。
亀村 俊二 |
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「始めての個展のあとで」
昭和61年の夏
私は始めて写真の個展を開きました。
タイトルは「沼の楽譜」、京都の町中に存在する「小さな池(深泥池・国指定の天然記念物)」の動植物の四季の営みを追った写真展です。
京都人ならちょっと気になる「深泥池」の写真とあって、新聞やテレビでも数多くとりあげられ、会期中2000人を越える人々でにぎわい初個展の成功は大変うれしいことでした。
そして、これで写真家として世間に認められ仕事も増えるだろうと感じていました。
個展も終わり、数日していつもの出版社の担当者からお呼びがかか、り私は当然、良い話しであるだろうと期待して出向きました。
ところが、先方は私の展覧会活動をあまり良しと捉えていないようなのです。
個展は褒めていただいたのですが、どういうわけか写真撮影代の見直しを余儀なくされ、その年から値下げの契約をさせられてしまいました。
追い討ちをかけるように、他社からも「うちは写真の先生はいらんなあ」と言われてしまったのです。京都流に言う「京都人のいけず」をまともに喰らったのでしょうか。私はそれらの出版社から自然と離れることになり、そして、いつか見返してみせると、懲りずに展覧会活動を続けてきたのです。
時がたち、今は仕事抜きにして、どちらの出版社の人達とも、わだかまりもなく付合ってはいるのですが、あの個展のあとの出来事は、『ほんまもんの「京都人のいけず」やったんやろか』、はたまた『小さな成功で有頂天になってしもうた若い自分の言動に問題があったんやろうか』
最近接する若い写真家たちを見て、ふっとあの頃の自分を思い起こす昨今です。
亀村 俊二 |
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「 東海道新幹線にて 」
先日、東京行きの新幹線に妻とふたりで乗ったときのことです。
列車は静岡駅に着きました。そこで、アナウンスがあり 「車内に急病人がでました。ご乗客の中にお医者さまがおられましたら、3号車まで至急おこしください。」
突然、通路を挟んだ臨席の50代半ばの男性は立ち上がり、駅弁の箸を放り出して列車の後方へ向かいました。
「今の人、お医者さんかなあ」と妻と顔を見合わせ心配していました。
列車は20分ほど遅れはしましたが、ようやく走り出し程なくその男性も帰ってきました。
彼が席に戻るなり
妻 「お医者さんですか。」
男性 「あっ、はい、小児科医です。」
妻 「ありがとうございました。」
男性 「それほど、役にたちませんでしたが。」
と控えめな返事が返って来ました。
騒然としていた車内も平常に戻り、安堵の空気が漂いはじめました。
「先ほどのお医者さまおられましたら、乗務員にお声がけください。」と車内アナウンスは何度も繰り返されます。
しかし隣の席の男性は黙々と食べかけの弁当を口に運ぶばかり。通り過ぎて行く乗務員たちには、なかなか医者の彼を見つけることがで来ません。
彼もそのまま名乗り出ることもなく、車窓には雪を頂いた富士がうす雲に見え隠れして、そして何もなかったかのように新幹線は走り続けていました。
亀村 俊二 |
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遠い記憶<大雪の日>
昭和30何年だったか、はっきりとした年はわかりませんが、その年の正月、京都に大雪が降りました。
朝起きると、子供の腰くらいのところまで雪が積もっていました。
突然、父は物置から古いスキー板を持ち出して来て短く寸法を揃えてのこぎりで切り始めたのです。
二本のスキー板をまたぐようにして箱を取り付け、子供がひとり乗れるそりを私と兄のために作ってくれたのでした。
私たちはうれしくて、近所の子供たちを誘って衣笠山の麓へそり遊びにでかけることにしました。父が作ったそりを引きながら、山へは家からまっすぐ西へ15分位で着きました。
急な山の斜面を何度も滑り降り楽しく遊んでいたのですが、、近所の子供たちはそのうち遊びに飽きて帰ってしまいました。残された兄と私は、それでもまだしばらくはそり遊びを続けていたのですが、とうとう、そりが壊れてしまい滑らなくなってしまいました。
ふたりでそりを持って帰ろうとしても、たっぷりと水を含んだ古いスキーと、板きれと化したりんご箱は重くて、子供の手にはおえないものになっていました。そして雪はしんしんと降り続け、日は傾きはじめ、私たち兄弟は父に作ってもらったそりのことで言い合いをしていました。
兄は、「お父ちゃんに怒られるからどうしても持って帰る」
弟の私は、「このままでは遭難してしまう。ここに置いて、早く帰ろう」と言い、けっして意見があいません。
結局、私がひとりで家まで帰り父に助けを求めることになりました。兄はそりの側で凍えながら身をかがめ、私は泣きながらまっ白い道を東へと歩き始めました。
しばらく歩くと、遠くに二人の大人の影を見つけました。あふれる涙越しに見つめた、そのだんだんと近づく影の映像をはっきりと記憶しています。私の真っ赤にはれあがった両手を、やわらかな毛糸の手袋でふんわりと握ってもらった肌触りはいまも忘れることができません。
そのふたつの影は、着物姿の父と、当時大学生だった親戚のお兄さんでありました。
亀村 俊二 |
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遠い記憶・映像<森の向こう>
私は幼い頃身体が弱く、母がわたしの健康を気遣ったのか、少し疲れた様子をみせるとけっして戸外で遊ぶことをゆるしませんでした。
家の裏庭は神社の森と接し、古びた塀で隔たっていました。波形のトタン塀はみどりのペンキで塗られ、褐色の錆びでおおわれていました。
森の向こうは町内のあそび場となり、そこで三角ベースや、ドッジボール、ビー玉、面子(めんこ)、肉弾や胴馬など、高学年のお兄さんから小さな子供たちまでが一緒になって毎日遊んでいました。
ボールの跳ねる音、森の奥深くまで転がった球を探し廻る聲、そんな楽しそうに騒ぐ友たちの様子がつたわってきます。
私といえばいつものように外出禁止、飼い犬のように裏庭をうろうろとする日が続いたある日、とうとう我慢出来ず子供の背丈では届きそうにもない高い塀の向こうをのぞくことにしたのです。
庭の隅に散乱している廃材を塀に添って積み上げ足場を作りました。
その不安定な足場の上に乗りトタン塀の上部に両手を掛け、グッと背伸びをしました。
すると、森の向こうの様子がほんの一瞬垣間見えたかに思えたその瞬間、掌に走ったにぶい痛みはいまも忘れません。
今、私の左の掌にある大きな波形の傷跡をみつめる時、おさな友達の顔やもっと自由に遊びたかった想いなどが走馬灯のように思いだされるのです。
亀村 俊二 |
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「 再々会 」
従弟から一つの腕時計を見せられました。
三十数年前私から貰ったというクロームメッキでシンプルなデザイン。
その腕時計を見た瞬間、懐かしいおもいがわいてきました。中学進学の記念として父に買ってもらったものだったのです。セイコーの17石、手巻き腕時計、確か当時2800円だったこともよく覚えています。
私はそれを彼に譲ったことなどすっかり忘れていました。
おもえば、この腕時計と再会するのはこれが始めてではありません。
それは中学三年生のことです。
そのころ校則で禁止されている腕時計を、私も隠し持って学校へ行っていました。授業中、後ろの席の同級生にせがまれ、そっと見せただけの腕時計が返ってこなくなりました。何度か返すようにと彼に言ったのですが、返事は「しらない」のいってんばり。当時の公立中学では、こういうことやけんかなどはそれほどめずらしいことではありませんでした。私はどういうわけかこの出来事にはあまり動じず、そのうちに返ってくるだろうとしばらく構えていました。
一ヶ月ほどが過ぎたある日、突然、私の家の玄関先にあの同級生が立っていたのです。そして、私に申し訳なさそうに腕時計を差し出し、素直にあやまってきました。
がっしりした体格でやんちゃな彼が、今日にかぎってみょうに大人しかったこと。そして、そのときの同級生に何があったのか。それは未だに想像もできない不思議な出来事でした。
再々会できたセイコーの腕時計は、文字盤のガラスも皮ベルトも新しいものに替えられ、ピカピカ光って幸せそうに時を刻んでいます。
亀村 俊二 |
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現代・東京物語
先日、私と妻は東京で暮らす三人の息子と久しぶりに食事でもしようと思い立ち、二泊三日の旅行にでかけました。
あいにく息子たち三人の時間があわず、一人ずつ順番に逢うことになりました。彼らはそれぞれ、おすすめのギャラリーをおしえてくれたりめずらしい料理店へつれて行ってくれたりと、忙しい中、時間をさいてつきあってくれました。
歩く時はかばんを持ってくれるし(手を引くところまではいきませんが)、仕事のことや写真のこと、いろいろとゆっくり話しができて楽しかったのですが、息子たちに案内されるままの歩きと、人込みと地下鉄の階段の多さに疲れきって帰ってきました。
その昔見た映画・小津安二郎監督「東京物語」。笠智衆・東山千恵子演ずる年老いた夫婦が、東京に住む子供たちを訪ねる・・・もの悲しい物語。
実際の私たちは、老夫婦でもなければもの悲しくもないのですが、ふっと映画のひとコマと重なり合って思い浮かべていました。
そのことを妻に言うと、「私も一緒!」とおもわず共感した次第です。
亀村 俊二 |
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シンクロニシティー
この8月、私の主宰するギャラリー・ホリゾントにおいて、助手でカメラマンの科田わと(22歳の美しい女性)の写真展を開催しました。
テーマは『きょう』
(夏の京都の風景を科田の視線で切り取った写真)
いつも仕事をともにする詩人の遠藤さんの詩と「詩と写真のコラボレーション」でギャラリーの空間を演出した、ちょっと変わった展覧会でした。
私は展覧会の飾り付けを終え、彼女の写真で気がかりなことを発見したのです。
師匠と弟子の作品は自然と似てくるものと感じてはいたのですが、そのうちの1点がわたしのものとまったく同じ場所、同じ構図で撮られていたのでした。
私は多くの写真の中からそれを見つけたとき、自分の写真が混ざり込んでいたかのような錯覚に陥りました。ところが私がその写真を撮ったのは22歳、まだ学生のときのことだったのです。彼女が私の学生時代に撮った白黒写真のことなど知る由もありません。
京の片隅で「誰も見過ごしてしまいそうな、そんな風景」
三十数年前22歳の私と、今22歳のわとの写真がシンクロニシティーしているとは、ただの偶然とは考えにくい、なんとも不思議な体験でした。
亀村 俊二 |
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 「一言」
先日こんな経験をしました。
京都の町家が並ぶ幅狭い通りをゆっくりと車を運転していました。前方には外国人の女性がふたり、大きな旅行バッグを転がして歩いています。傍にはガイドでしょうか、日本人の女性が同行していました。
ふっと見ると、大きなバッグの上に積まれたおみやげらしき物がころげ落ちました。彼女たちはなにも気付かず歩いていきます。
私は車のクラクションを小さくならし、振り返った三人に落ちた荷物を指差してそのことを知らせました。日本人の女性があわてて引き返し、それを拾って、こちらを見ることもなくまたもとの二人と並んで歩き始めました。
私は、「なんと礼儀のない人間やなあ、ちょっとくらい挨拶してもいいのに」と感じた次の瞬間、二人の外国人女性たちがこちらを振り返り手を振って、美しい笑顔で会釈してくれました。
そのことで気を良くした私でしたが、こちらに何の反応も示さない日本人女性の態度が許せない複雑な思いが残ってしまいました。
そんなことがあってから数日後、京都駅でのことです。
大勢の人々の中、新幹線に乗車するため私も列に並んでいました。
そこへあわてて走ってきた一人の女性が列の隙間をすり抜けようとして、ジュースを持って並んでいた別の女性と接触、その手に持たれたジュースを飛ばしてしまったのです。
オレンジ色の液体と細かい氷が紙コップとともに空中に舞い、ホームに散乱しました。あわてて走り抜けた女性は、自分が起こしてしまったことに気付いたのでしょう。数メートル走った後、振り返ってはみたものの、「無言」で、ただただ当事者たちのにらみ合いが続くばかり、衆人は緊張に包まれました。
そして結果、一人の女性は踵を返し走り去ってしまい、残された女性は紙コップを拾い始めたのです。
「ああ、一言ほしかった・・・・。」
現在の日本人のこんな部分を見てしまった情けない瞬間でした。
亀村 俊二 |
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