ちょっと、お寺で一休み

もうずいぶん以前の話になります。妻は学校に勤め、私はフリーのカメラマンで月のうち何日かは撮影の依頼もなく、そんな時は写真の被写体をさがして京都近辺をあちこち車で走ることが常でした。

京都を南に下がって行くと、いつもお参りさせていただくお寺があります。伏見の妙福寺です。

その日もカメラを持って走り回っていましたが、ちょっと、妙福寺さんでひと休み、お寺でひと休みとは、ばちがあたりますが、本堂にごあいさつを終えてから庫裡へ向かいます。

当時、庫裡には御住職が居られ側にはいつもかおる奥様がついておられました。
私が訪れるとご信心の話、仕事の話、家族の話、楽しいことや困ったこと、いろいろ聞いていただき、教えていただけます。こころも身体もひと休みの後は、背中を押されるようにまたもとの仕事に戻って行くのです。

いつものように御住職、奥様との話を終え「ありがとうございました。それでは」と、立ち上がったのですが、かおる奥様が私の足下を見つめて、
「あんた、靴下、大きな穴あけて、えみちゃん(私の妻)なにしてんの」
「ちょっと待ってよし」と言って奥からまだ包装紙に包まれたままの靴下のケース箱を持ってこられました。

「これにお履替え」
かおる奥様のお人柄からくるものでしょうか、 靴下の大きな穴を見つけられても恥ずかしい思いをすることもなく、妙に素直に、その中の気に入った靴下を一足取り出していました。
そしてその場で履き替えることになったのです。

「これ、みんな、持ってお帰り」
私は何足かの靴下をもらって、まるでやさしい母に叱られるような、そんなうれしい気持ちでお寺を後にしたことを記憶しております。

亀村 俊二

人生の転機

1970年頃のことです。
私は当時、写真の好きな学生でした。
京都生まれ京都育ちだからという訳ではないのですが、なんとなくのんびりと京都の寺を被写体に写真を撮っていました。

ある日、夜明け前からカメラを持って家から歩いて30分ほどのところにある紫野・大徳寺に向かっていました。

大徳寺の塔頭のひとつ大仙院の門前を通り過ぎようとしたとき、一人の坊さんが竹箒で、まだ夜の明けきらない参道の砂利を、規則正しく掃き揃えている場面と遭遇、坊さんは作務衣姿にぞうり履き、頭には白い日本手ぬぐいをかぶり、それは絶好の被写体でした。

そっとカメラを向けシャッターを切ろうとした瞬間、私の次の行動を悟られてしまったのか
「おい・・・こんな朝から写真なんか撮って・・・」
「そのまえに、掃除や」
いったん山門の大きな扉の裏にまわった坊さんは、片手にもう一本の竹箒を持って足早にこちらへ飛んできました。

きょとんとしている私の顔前にそれは差し出されたのです。
私はその時の坊さんの素早い動きと、鋭く輝いた瞳を今も忘れることができません。
それから、どのようにしてその坊さんと一緒に参道を掃き清めたかはっきりと覚えていませんが、この出来事をきっかけに私は大徳寺・大仙院に足繁く通うようになりました。

お坊さんの名前は、尾関宗園。しばらくして知ったのですが、テレビやラジオにもよく出演し、また数多く書籍も執筆されている名物和尚さんだったのです。大仙院は拝観寺院でもあり、毎日大勢の拝観者で和尚さんはいつも忙しく寺内をとびまわっておられます。

私はそれでも月のうち幾度も大仙院を訪れ、そのうち庫裡にまで上がり込み、いつもおうすとお菓子をすすめられ、奥様や寺方さんとも親しく話をさせていただくようになりました。学生の身にもかかわらず、そんなひと時を過ごすことが好きでした。

禅の写真を撮りたいと無理を言ったこともありました。
和尚さんは未熟な写真小僧に対しても、本堂や廊下で禅を組み、「平常心」の被写体を与えていただき、私は何も恐れず夢中でシャッターを切りました。 そして出来上がった写真を和尚さんに渡し、褒めてもらうことが楽しみでした。

学生生活も終わりが近づき、そろそろ就職をしなくてはという時に、和尚さんに将来について話したことがあります。
「写真家になりたいのです。」
和尚さんは私の話しを熱心に聞き、「写真をやりたいのやったら写真家の先生を紹介しようか」
和尚さんの口から当時の日本の代表的な写真家の名前が次々とあがってきました。

その中に京都の写真家・浅野喜市先生の名前もがありました。
そのころ浅野先生は河原町の朝日会館で「嵯峨野」の写真展をされていて、私はその展覧会を見てひじょうに感動しておりました。

さっそく、わたしは浅野喜市先生に会わせていただくよう和尚さんにお願いしました。きっと電話か手紙で紹介されるものかと思っていましたが、和尚さんは私をつれて浅野先生のお宅まで同行していただき、そして「鞄持ちでもなんでもさせますから亀村に写真というものを教えてやってほしい」と私が言わなければならないことまで和尚さんに言わせてしまっていました。 

こんなことがきっかけとなり、私は写真の世界へ入ることができたのです。 
そして今、「ひとりの坊さんとの出会い」と「あの参道を掃除した」記憶はわたしの人生の転機において繰り返し表れる映像となっているのです。

亀村 俊二

父から習った写真

中学生のころ、父から「写真の撮り方」を習ったことがあります。

シャッタースピードと絞りの関係のこと、ピントのあわせ位置、カメラの構え方は、「両足を肩幅に開き、脇をしめ、」「左の掌にカメラを軽く乗せ、右手は添えるように、」「人差し指の先端で真上からシャッターボタンをそっと押す。」「その瞬間は軽く息を止めて、」などです。

今、私は京都精華大学の写真の授業で、この「ブレのない、シャープな写真の撮り方」をいちばんに教えることにしています。
父から習ったことを懐かしく思い出しながら・・・・。

その時、学生たちは私の実演するカメラの扱いに目を輝かせて乗ってきます。
そしていつも、私は父の言葉をそのままに繰り返している自分の姿に気づくのです。

亀村 俊二

中高年の登山

妻と友人の三人で一泊旅行にでかけました。

三重県紀伊長島、魚料理と温泉でのんびりとした旅、初日はあいにくの雨でしたが、次の日は快晴となり、私は早朝から、宿の前に広がる砂浜の写真を撮って歩きました。

宿に戻って朝食をすませ、今日は何処へ行こうかと三人で計画、ロビーのポスターを見て、近くに世界遺産で有名な「熊野古道」があるのを知り、見に行くことにしました。

私たちは軽装で、そして家からつれて来た犬も車に待たせていたものですから、ほんのさわりの「深い自然と連なる石の山道」の風景に出会えれば折り返すことにしました。

大きな石を踏みしめ、登り始めた山道は大変にきつく私たちはゆっくりと進みました。いくらか登ると、下の方からざわざわと大勢の話声が聞こえだしました。振り返るとまだ姿は見えませんが、確かにそのざわめきはどんどん近づいて来ます。

そして、いつのまにか20人ほどのグループに取り囲まれたかとおもうと、彼らの足取りは軽く、あっという間に山の奥へと消えて行きました。

私は彼らにいっきに追い越されてしまった自分の体力の無さに大変なショックを受けたのですが、その彼らが私の歳をはるかに超える初老の登山グループであったことが、未だに忘れることができません。

亀村 俊二

遠い記憶・映像 (サンライズパン)

昭和30年頃です。
私の家の裏の神社の角を曲がるとバス停があり、その前に小さなパン屋がありました。
私は祖母から5円玉を一つもらって、いつもは別の方向にある駄菓子屋へおやつを買いに走るのですが、その日に限って10円貰って、私はバス停前のパン屋に向かって走っていました。

確か晩ご飯までには少し時間がありました。
よほどお腹がすいていたのか10円貰って嬉しかったのか、いつもはそこで森永のキャラメルを買うことに決めていたのですが、その日はパンを買ってしまいました。

サンライズパン(現在のメロンパン)を買って店から出ると、バス停にバスが止まりました。
なにげなくバスから降りる人々を眺めていると、いつも夜遅く帰宅するはずの父が、早く仕事を終えたのか、そのバスから降りてきたのです。

私はとっさに今買ったサンライズパンを体の後ろに隠し、父を迎えていました。食事前にパンを食べて叱られることを恐れたのではなく、腹を空かせて仕事から帰って来た父に、子供心に申し訳なくて今買ったパンを見せることができなかったのです。

たぶん私が両手を後ろにまわしなにかを隠し持っていたことを、父は知っていたと思います。
前後することもなく並んで家まで歩く少年と父、後ろに廻った小さな手にはサンライズパン。

そんなけっして自分では見ることのない背後からの映像を、私は何故かはっきりと記憶しているのです。
しかし家に帰ってからの、あのパンがどうなったのか残念ながら思い出せないままなのです。

亀村 俊二

ギャラリーカフェを始めました

今年3月から妻とふたりで1階スタジオの整理から始まった手づくりのギャラリーカフェ、撮影の合間に少しの時間を見つけて1階から2・3階への荷物の移動やペンキ塗り、楽しいようでけっこう辛いものもありました。

お陰で完成までの間に2度のギックリ腰をやる始末、しかし、困った時に助っ人は現れるものです。

電気の磯田さん、水道の坂元さん、大工仕事の木村さん、稲田さん、京都精華大学芸術学部の重村君、息子の友達駒井君、北波君、高橋君、友人の息子科田龍之介君、小太郎君、妻の友人平塚さん、森本さん、適切なアドバイスをいただいた友人のデザイナー丹治千景さん、 画家の藤原さん夫妻、小出君夫妻、アシスタントでカメラマンのWato、まだまだいろんな方々に無理ばっかり言って手伝っていただきました。

おかげさまでなんとかギャラリーとカフェができあがりました。ありがとうございました。

名前は「horizont」(ホリゾント・スタジオの背景に使用する白い壁面)とします。
horizontの後に小さくart cafeと付きます。
これからゆっくりと育てていきたいと思っています。
今後ともhorizont art cafe をよろしくお願いします。

horizont art cafe

亀村俊二写真事務所 亀村 俊二

初心忘るべからず?

ふと、私がフリーカメラマンとして初めて撮影した時のことを思い出すことがあります。

京都にある出版社から、社会科の教科書に掲載される写真の撮影依頼がありました。
26歳で独立した私にとってやっと来た初めてのやりがいのある仕事です。

ところが詳しい撮影内容を担当者から聞いてびっくり・・・なんと私の初仕事は、「奈良の大仏」の撮影だったのです。

それまでカメラマンの助手として何度も困難な撮影に立ち会ってはいましたが、今回は撮影許可どおり、限られた時間のうちに一人で撮影を終えなくてはなりません。ましてこちらは人には大きな声で言えない初仕事のカメラマン。失敗は絶対に許されません。

大きくて暗い御堂の中、カメラのシャッタースピードは?絞りは?さっぱり予想もつきません。
はたしてうまく写ってくれるのかー。

あまりにも心配になって、撮影日までにあらかじめ下見しておくことにしました。小さなカメラをジャンバーの内にしのばせて 、本番と同じ条件で撮影、シャッタースピード、絞り、ok カメラ位置はここからこの角度で・・・よし、
これで撮影当日はよく仕事慣れしたカメラマンのように動ければ・・・こんな思いではじめての撮影を経験した未熟な私でした。

あれから28年、ずいぶん慣れたはずの写真撮影ですが、いまだに ちょっと困難な撮影が迫ると
「果たしてうまく写ってくれるのかー」
またまた心配になってしまうこんな人間の性格が憎い。

亀村 俊二

パリの出合い

91年の私のパリ個展は誰にもみてもらえるチャンスもなく失敗に終わりました。

悔しい思いの私と妻、パリの街も歩き疲れて、サンジェルマン・デプレの教会のまえのカフェ・マーゴのテラスでコーヒーを注文してひと休み。

一ヶ月間続いた誰もこない個展のことを思い返しつつ、さまざまな人種の異邦人達がカフェの前を通り過ぎて行くようすをぼんやりと眺めていました。

その中にこちらを向いて不器用そうに何度もシャッターを押し続ける私より少し歳の若そうな日本人カメラマンが目に止まりました。

今から思うといつもの私なら絶対にしないであろう行動に出てしまっていました。テーブルを離れ、歩道にいる彼のところまで声をかけにいったのです。
同じ写真を職業にしている身、苦労も多いだろうと勝手に思い込み、始めて逢った彼と写真の話を始めました。話も弾み、「こちらで一緒にお茶でも」と私たちのテーブルまで誘っていたのです。

よく聞いてみると彼はパリ在住のジャーナリスト、そして私はパリ個展が失敗に終わった無名の写真家、話は逆転し、いつの間にか個展の失敗談を彼に聞いてもらっている始末。

その後、年月がかかったものの、結局、彼に託した私の作品がパリ大学の色彩学の教授の目に止まることとなり、パリ国立図書館より作品の買い上げのきっかけになったりと、偶然、そして又不思議な力で出会った彼には世話になりっぱなし。

私と彼とのおつきあいはそんな導かれたようなおはからいで始まった次第です。

亀村俊二

出会い・パリのカフェで

91年にパリで一ヶ月間の個展を開いた時のことです。

会場はパリの中心サントノーレ通りに面した小さなギャラリーです。
開催日の前日、妻と二人で作品を展示、事前に用意された案内状は配布ずみ、ポスターは街角に守備よく掲示されたはず、さあ、個展は始まりました。

ところが、来るはずのお客はほとんど来ません。二日目、三日目とお客が入らないのです。

私と妻は会場にだんだん居づらくなってきて、パリの街を散策して一日を過ごすことにしました。そして、ある重大なことに気付きました。
街角に貼られてあるはずの数百枚の展覧会のポスターがどこにも見あたりません。ギャラリーの周辺に数枚寂しそうに貼られているだけでした。
そうすると案内状の配布も・・・?

すぐにギャラリーの担当者にポスターや案内状のことについて尋ねてみました。
答えは「アルバイトのものにさせたのですが・・・」
本当に悔しい思いのパリの個展でした。

この話にはまだつづきがあります。
次号も読んで頂ければうれしいです。

写真 山形県にて

亀村俊二

横浜旅行・道中記

妻と当時大学生の次男とビーグル犬のラック、キャバリア犬のサンデーを車に乗せて京都を出発、途中、琵琶湖にある広大な蓮池をカメラにおさめてから横浜へ向かうことにしました。

青空のもと、次男を助手に蓮池を撮影し始めました。 ところが足場が悪く、カメラの側でレフ板を構えていた次男が足を滑らせ尻から池にはまってしまいました。
出発早々大騒ぎでしたが、 なんとか撮影も終え、汚れてしまった服も着替え、車は名神高速道路.東名と快適に走りました。

横浜駅で東京から来た長男と合流、横浜港・山下公園で車を止め、犬の散歩です。長い時間車に揺られていた二尾の犬はよろこんで車から飛びおりました。私はサンデーを 、息子達はラックをつれて桟橋に向かって歩き始めました。

ところが海を見ようと堤防にさしかかると、サンデーは柵の隙間をすりぬけあっという間に海面まで三メートルはあろう海に転落、私は抜けてしまった首輪を片手に大あわて、犬は波間を必死に泳いでいました。

その様子に気付いた息子達はすぐに駆け付け、次男が水際に小さな足場を見つけ降りることができました。私と妻はただ犬が沖に向かわないことを願いながら、「サンデー、サンデー」と叫び続け、次男は手をのばして犬を掴み、長男へそして私に、ようやく陸に揚げることができました。サンデーは子犬の頃から目が悪く、ほとんど見えないことを私達は忘れていたのです。

一夜明け、横浜の知人宅を訪れ久しぶりの会話も弾み、MさんとJ子さんから海水浴に誘われました。私はふっと琵琶湖や横浜港での出来事が頭によぎり、少しためらいましたが、せっかくのお誘い、大いに楽しむことにしました。

次の日、私達家族と二人の美しい女性は車に乗って海水浴、三浦半島・葉山の海を満喫することができました。そして水の嫌いなラックは砂浜で吠え続け、陽気なサンデーは昨日の事などなにもなかったかのように、もくもくとイヌカキを楽しんでいました。
やれやれ・・・・

亀村俊二

沖縄日帰り撮影の旅

台風の合間をぬって沖縄へ撮影に出かけました。
私のスケジュールの都合で日帰りの旅、朝9:10に大阪伊丹空港を発ち16:35の那覇発の飛行機に乗る計画をたてました。

撮影地は宜野湾市の美術館と沖縄戦跡の平和記念公園(摩文仁)と距離にして60kmほどの移動になります。
レンタカーを運転して回る予定でしたが、慣れない土地での運転はたいへん、タクシーで移動することにしました。

無理な計画とは知りながら時間内で撮影を終えたいと願い、空港で観光タクシーとの料金や時間を交渉、無理をなんとか了解してもらい車は走り始めました。

運転手さんは話好きで親切で運転もうまく、時間は計画通りすすんでいます。
南国の照りつける日ざしの中、撮影を終えて車に戻ってきた私は運転手さんからよく冷えたお茶をいただき、これも写されてはどうですかとハイビスカスの花を差し出されたりして・・・感謝。

すべて順調、短い時間でしたが快適な沖縄の旅、おかげで予定どおり仕事も終える事ができ、空港に戻ってきました。運転手さんのお名前も教えてもらい、私も名刺を渡し、「ありがとうございました。また沖縄に来た時には助けて下さい」あわててタクシーから降りようとする私に、彼はこまった顔をして言いました。

「あのー・・・料金いただいてないんですが・・・」
「すみませーん 運転手さん これだけの親切を受けておきながら・・・」
彼に申し訳ない気持ちがいまだに私の心に残り、忘れられない旅になりました。

亀村俊二

ギャラリーカフェをつくる話し

私達には3人の息子がいます。
長男は東京で写真家を志し、次男も東京で映像の仕事に就いています。おまけに三男も同じマンションに転がり込み、この春学校を卒業して音楽の道に進もうとしています。

子育ても終わろうとする今、ふと自分達のことを振り返ってみると、私は商業写真の仕事に就いて30年、妻も長年勤めた職を辞し私の仕事のパートナーとして共に歩んできました。

おかげさまで仕事は途切れることもなくここまでこられたのですが、しかしこの頃、目や体力の衰えとともに世間でいう定年のようなものがフリーカメラマンの私にも近付きつつあると感じられるようになってきました。

クライアントの注文に応じる写真の撮影は体力と根気が勝負です。
このままがむしゃらに仕事を続けていくのか、新しいスタイルでいくのか、いろいろと考えた挙げ句・・・「ここらで人生 すこしかえようか・・・」

「老後はギャラリーと喫茶店でもして好きな写真を撮って暮らせたらなあ」と思ってはいたのですが、よく考えれば、老後、働けなくなってからでは遅すぎることに目覚め、おもいきって自宅のスタジオをギャラリーカフェに改造する工事を始めました。

秋には、私はギャラリーのオーナーと写真家として、妻はコーヒーたてて、「はじめの一歩」が始まります。
想えば、私の父も国家公務員を退き新しい職に就いたのが54歳、今の私の歳だったのです。

亀村俊二

記念写真

先日スタジオ改装のため20年間たまり続けた写真の山を整理していた折、心に残る1枚の写真が出てきました。

1987年4月、はじめて私が新宿ニコンサロンで個展をした時のものです。父母と妻と3人の子供達が写っています。

ことに父母は私のはれの舞台がうれしかったのでしょう。満面の笑みを浮かべて記念写真におさまっています。
あれから18年ー。

この6月1日から1ヶ月間、東京・品川の再春館ギャラリーで今度は私の長男が初の個展を開くことになりました。私たち夫婦も息子の個展に行くことを楽しみにしています。 そして、またあの時の父母と同じ気持ちで、同じ笑顔で私たちも記念写真におさまることになるのでしょう。

亀村俊二

深泥池(天然記念物)雲とじゅんさい

「一生の友」

私が深泥池の撮影に取り組み始めたのは20年以上前のことです。池には中央に浮島があり、そこは立入り禁止となっています。

そこで京都市の特別許可を得ることができたので、カヌーを浮かべて浮島を撮影することにしました。私のボーイスカウトの幼なじみで、当時国体のカヌーの監督をしておられた科田康一さんにお願いして池にカヌーを浮かべることにしたのです。

夜の水鳥たちの様子をカメラに捉えようと初めて池にカヌーを出した時のことでした。池のまん中まで漕ぎ出した時、気がつけば岸のほうにパトカーが止まっています。何かあったのかなと思いつつも夢中で撮影を続けていたのですが、どうやら警官は私達を呼んでいるようです。

戻ってみると、ことは大さわぎになっていました。
なんと、私達はこの池に飛来するカモの密猟者になっていたのです。

そんな体験から始まった深泥池は今では私のライフワーク「一生をかけてする仕事」になっています。
体験を共にした科田さんは今では私の「一生の友」となっているのです。

亀村俊二

「外国人?」

東京・上野の森を撮影取材に訪れた時のことです。

撮影は不忍池から上野公園と順調に終え、筆者のR子さんと上野の森を写真の被写体を探しながら歩いていました。前方から若いカップルが自分達ふたりの写真を撮ってほしいらしく、小さなデジタルカメラを笑顔で私に差し出してきました。

「プリーズ ・・+* テイク ア ピクチャー」
と日本人である僕にはひじょうに分かりやすい英語でお願いされたのですが、「はいチーズ」と言っていいのか戸惑いながらも若いふたりにシャッターを切ってあげました。

そのことが終って、歩き始めた僕にR子さんが言いました。
「何処の国のひとでしょうね?」
「僕もそう思いました、どう見ても日本人ですね」・・・・そこでふっと     
「それでは外国人は僕の方?」

そういえば僕の今日のいでたちは、浅黒い顔にひげ面でオレンジ色の毛糸の帽子をかぶっていました。
帰りの新幹線には帽子はポケットにしまいこんで乗りました。

亀村俊二

旅の穴

パリから鉄道に乗ってベルギー、イギリス、スペイン、そして南フランスを妻とふたりで旅したときのことです。

旅の始まりのベルギーはブリュ−ジュでのできごとでした。

駅に降り立って、まず、街の方向に歩きだしたのですが、駅前にレンタサイクルをみつけ、自転車を借りることにしました。

街へ行くには、左の道でも右の道でもよいのですが、私たちは右の道を選びました。

さあ、出発です。

ところが100mほど自転車を連ねて走ったところで妻の自転車が石畳のせまい道のまん中にあいた小さな穴にタイヤをとられ、ゴツンという音をとともにパンクしてしまいました。ため息まじりで駅に戻り、自転車を交換、新たな気持ちでこんどは左の道をすすむことにしました。

ブリュージュは中世の佇まいを残した街並と運河が見事に美しく大勢の観光客で賑わっていました。写真も充分に撮り、きょう一日を満足して過ごすことができ、私たちはロンドン行きの夜行フェリーに乗るためまた駅に戻ってきました。

ところが駅までもう少しというところでゴツン・・・こんどは私の自転車のタイヤがパンクしてしまいました。

そこには、私たちの出発の邪魔をした「あの穴」がポッカリと口をあけていたのです。

どうか「すばらしい旅になりますように」とお願いしての旅の始まりでした。

亀村俊二

遠い記憶・映像

昭和30年前後のことです。

その頃のぼくには忘れられない出来事があります。兄に手をひかれて兄の友達のうちに遊びに行った時のことです。

兄は友達の家の玄関まで来ると、突然「おまえ、ここから帰れ」と言ってぼくを閉め出して、その家の中に入って行きました。

ぼくは一人で帰ることになってしまったのですが、果たして何処をどのように歩いたのか、ぼくの家から反対の方向に歩いてしまっていました。夕暮れになって、泣きながら歩いていたのでしょう。そこで見知らぬ農家のおばあさんに声をかけてもらいました。

泣いているぼくに「どこから来たんや」「家はどこや」
ぼくは「わら天神」「大亀さんのうちのまえ」とおばあさんに云いました。

覚えたばかりのぼくの家の住所も正確に言ったようにもおもいます。ぼくの家の側に「わら天神」があり、おもしろいことに「亀村」の家の向いが大工の「大亀さん」の家なのです。ぼくはおばあさんに連れられて夕闇迫る道を家まで送ってもらいました。玄関の戸を開けると、オレンジ色に燃えるおくどさんの火に照らされて、母がお釜のご飯を炊いていました。

兄に「ここから帰れ」と言われ、兄の閉める戸が目の前で今にも閉まろうとする映像、「大工の大亀さんのうちのまえ」とぼくが泣き泣き云っている様子。「おばあさん」に連れられて歩いた道、そして「母の顔を照らしているオレンジ色の炎」が遠い記憶として残っています。

あの「おばあさんの顔」は、長い間心の中で憶えていたのですが・・・。

亀村俊二

心にのこる言葉

昨年の1月に京都で個展を開いた時のことです。私が教える京都精華大学の写真の授業と個展の会期が重なったので、会場で作品を前にして講習することになりました。

14、5人の学生が円座になって茶菓子をつまみながらの授業は、雰囲気も変わり楽しんでいる様子がこちらにもはっきりと伝わってきました。

ところが何時も私の側に座る中国人留学生のT君は今日も授業態度が良く、熱心に質問も繰り返してくるのですが、テーブルに出した茶菓子には全く手を付けません。

遠い国からやってきた若い学生の身、お腹も空くだろうと、何度も彼に奨めてはみたのですが、ついに最後まで彼は菓子を食べようとはしませんでした。

授業終了後、身体の調子でも悪いのかそれとも他に何か理由があるのか、気になって彼に聞いてみました。何度も聞く私にT君は申し訳なさそうに言いました。

「先生から頂くのは智恵だけです」。国ではそう教えられました…と。

亀村俊二

秋田県 大館市

京都から寝台特急・日本海に乗って大館に行きました。

列車は午後9時前に京都駅を出発して北陸本線を北に向います。

京都で買った駅弁も食べ終えコトコトと車両の揺れを楽しんでいるうちにいつの間にかぐっすりと眠ってしまったようです。

目覚めると山形からそこは秋田の県境あたりの川に沿って列車は走っていました。

川面には霧が立ち込め暁に浮かび上がった東北の銀世界はえも言われぬ美しさ…

1時間余りで駅に降り立った私をいちばんに迎えてくれたのは市の中心を流れる長木川に渡来する白鳥やカモたちの群れでした。

亀村俊二

兵庫県・城崎 円山川にかかる虹

兵庫県城崎にある日扇寺という小さな山寺の御会式に参詣させていただきました。

日扇寺の住職松本現喬師は私の大学の先輩でもあり、いつも信心の大切さを教わっており私のよき指導者でもあります。

表紙の写真原稿の締めきりも明日に迫り、
<今日はどうしても撮って帰るぞ>と心に誓って出て参りました。

午前中はよいお天気に恵まれ、参詣を終え円山川沿いを撮影し始めたのですが、空がにわかに曇りだし横殴りの雨にカメラもぐっしょりと濡れ、いやな予感の天気予報があたり山陰地方は強い雨風…

諦めきれずに円山川を城崎に向かって車を走らせていると運転席の妻が「ほら、虹…」といって車を路肩に止めました。

私はあわててカメラを持ち出し虹が消えてしまわないことを願いながら夢中でシャッターを押し続けました。

山陰の鉛色の空にほんの少し覗いた青空を七色に染めた虹に感謝ー。

亀村俊二

古書店の写真集

先日こんなことがありました

ある造形作家の方より、知人を介して私に彼の作品集をつくるため是非、撮影してほしいという話がありました。

その造形作家がなぜ僕を指名されたのか聞いてみると、私が6年前に作った「日本のこころ<時空>」という古書店の片隅に置かれていた写真集を見つけ買って帰られたそうです。私はその話を聞いて嬉しく思いました。

ところで、この本は自費出版でどこの本屋にも販売しておらず、ただ知人達に献本した 数十冊のうちの1冊だったのです。不要になって古本屋に回されてしまったのでしょうかーーーー。

自分が造った本にこんな形で再会できるとは、心境複雑です・・・。

しかも新たな「仕事」とともに。まさに「人間万事塞翁が馬」。

亀村俊二

土門拳記念館にて

先日、山形県酒田市にある土門拳記念館に行きました。

土門拳は私達写真家の大先輩であり、リアリズム写真に徹した写真界の巨匠であります。

私は土門拳先生の写真に憧れて写真家を志したのですが、一度も記念館を訪れたことがありませんでした。

そんな思いを胸になんとか連休を利用して行くことができました。

寝台特急で早朝坂田に着き心静かに写真と対峙したいと思って記念館の開くのを待って入館、ところが作品を観賞し始めると、側の三人づれの来館者が作品の前で「この写真は・・・ここが・・・どうだ」などと写真談義をしながら観始めたのです。

私はこれはかなわんと思い美術館のいちばん奥に展示されている「古寺巡礼」から逆に回ることにしました。なんとか静かに観終わり、残りを入り口付近の大勢の客に混じり、またざわざわした環境で観ることになったのです。そこでは、「あれぇー・・わあー・・」いろんな声が聞こえてきます。
最後を観終わったところでやっと私は気付いたのです。

「そこにある写真が観る人に声を出させているのだ」・・・と。

亀村俊二

与那国馬の親子(沖縄県 与那国島)

沖縄本島から小型のプロペラ機に揺られて2時間のフライト日本最南西端の地、与那国島へ行きました。

車でゆっくり島を1周しても30分とかからない小さな島で南端の岸壁に立つと天気の良い日には遠く水平線の彼方に台湾を望むことができます。

与那国馬は 小柄で 性格もおとなしく昔から長い間農耕馬として人間のために働いてきましたが時代も変わり今は日がな一日、牧草地で草を食んで暮らしています。

それを眺めているこちらものんびりといきたいところですが、まだまだ子のため家族のため、馬車馬のように働かされる毎日が続いています・・・・

亀村俊二

丹波・篠山にて

兵庫県篠山市へ撮影の仕事に出かけました。

篠山市は昔ながらの町並みが美しく自然環境に恵まれ、丹波黒大豆、丹波松茸、丹波焼などでも有名な地です。

私たち(私とライターとアシスタント)は目的の撮影も終え、国道沿いの 秋の気配を楽しみながら 車を走らせました見渡す限りのその中、草むらのコスモス・アワダチソウ・ススキたちの共演に感動・・・。

路傍に散らばる無数の宝石を感じました。

亀村俊二

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